御室流は世界文化遺産仁和寺を創建の第59代宇多天皇を流祖とするいけばなの流派です。
仁和寺は中世には名匠、技芸練達者に称号を授与し、近世その称号をもつ華道家が集い御室流となりました。
古典技法と自由ないけ花表現を伝承し、花を通じ豊かな感性の涵養(かんよう)、人格形成をめざしています。
仁和寺の歴史は仁和2年(886年)第58代光孝天皇によって
「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願されたことに始まります。
しかし翌年、光孝天皇は志半ばにして崩御されたため、
第59代宇多天皇が先帝の遺志を継がれ、仁和4年(888年)に完成。
寺号も元号から仁和寺となりました。
仁和寺の始まり
仁和寺の歴史は仁和2年(886年)第58代光孝天皇によって「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願されたことに始まります。
しかし翌年、光孝天皇は志半ばにして崩御されたため、第59代宇多天皇が先帝の遺志を継がれ、仁和4年(888年)に完成。寺号も元号から仁和寺となりました。
写真:光孝天皇
隆盛と衰退
宇多天皇は寛平9年(897年)に譲位、後に出家し仁和寺第1世 宇多(寛平)法皇となります。
以降、皇室出身者が仁和寺の代々住職(門跡)を務め、平安〜鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保ちました。
しかし応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱で、仁和寺は一山のほとんどを兵火で焼失するという悲運に見舞われました。そのような中、本尊の阿弥陀三尊をはじめ什物、聖教などは仁和寺の院家であった真光院に移され、法燈とともに伝えられていきました。
写真:宇多法皇
江戸時代の復興
応仁の乱から約160年後の寛永11年(1634年)、ようやく再興の機会が訪れます。『仁和寺御伝』によれば、同年7月24日、仁和寺第21世 覚深法親王は、上洛していた徳川幕府3代将軍家光に仁和寺再興を申し入れ、承諾されるのです。さらには慶長度の御所造替とも重なり、御所から紫宸殿(現 金堂)、清涼殿(御影堂)など多くの建造物が下賜され、正保3年(1646年)に伽藍の再建が完了。ようやく創建時の姿に戻ることが出来たのです。
近世の仁和寺
慶応3年(1867年)、第30世 純仁法親王が還俗したことにより皇室出身者が住職となる宮門跡の歴史を終えます。また、明治20年(1887年)には御殿の焼失がありましたが、大正時代になると再建。昭和時代に入ると、仁和寺は真言宗御室派の総本山となり、近年では平成6年(1994年)に古都京都の文化財としてユネスコの「世界遺産」に登録され新たな歴史を刻んでいます。
写真:純仁法親王
いけばな
日本の伝統文化のひとつとして、世界中で楽しまれている「いけばな」。
私たちの祖先は、自然の偉大さにおそれながらも敬いの心を持ち、草木と共に生きるという、独自の考えを持っていました。飛鳥時代に仏教が日本に伝えられると、仏に花を供える風習「供花― くげ― 」がもたらされ、やがて室内に花が飾られるようになりました。その後、室町時代からの建築空間の移り変わりとともに、花を飾る花器や花留めが現れ、芸術性を高めていったのです。
以来、500 年の間に「いけばな」は、さまざま形で花と向き合ってきました。
その長い年月には、余分な要素を取り去ることで、花の持つ美しさや個性を最大限にいかして表現しようとする、日本人の美意識がありました。四季の移ろいがはっきりとした日本だからこそ、自然の美しさや力強さを作品の中に表す「いけばな」が生まれたのでしょう。
是非、花を手にとって実際にいけてみてください。
あふれる花の力、そして花の命と触れ合うことで、その美しさや重みを感じてください。